習慣に入り込むこと

何をやるにしても、始めることよりも続けることの方が大変だということを最近になって実感するようになった。

性格的に好きなものでないと続かないというのもあるのだが、習慣化されている生活リズムに対して新しいことを取り入れようとすると、どこかしらリズムを変えることになる。

この習慣というのは厄介なもので、今まで何度も繰り返して身についたものであり、ある種の癖のようなものでもある。それを変えようとするということは当然ながらストレスが発生してくる。今までの習慣を変えるだけの効果やメリットを得られないと思ってしまうと、物事はおそらく続かないだろう。

だからこそ、プロダクトやサービス作りは相手の生活習慣であったり、行動様式を理解しなくてはいけない。そこから設計・開発を行い、そのプロダクトが相手の生活を劇的に楽にするだけの価値を持ったものにする必要がある。

逆に相手の立場に立ったものでない、強制的に使わせるようなプロダクトは、よほど困っていなければ手にも取られない。もし、使われたとしてもすぐに辞めてしまう可能性が高いだろう。

相手の習慣はなんですか?

その習慣の中で不便であったり、不満に思っていることは何ですか?

そのうえで私たちが提案できることはなんですか?

この投げかけを常に忘れず、相手の生活習慣や行動様式を考えた上でのプロダクトやサービスを作っていきたい。

真っ白な背景との関係

ここ5年ほどだろうか。PCのデスクトップは何も置かずに、真っ白な背景という状態が続いている。

基本、その日に始めた新しいタスクのファイル以外は置かないようにし、置いたものは当日中か、次の日の業務開始時にはあるべきフォルダへ移動させている。

ただし、たまにこれが出来ないときがある。こういう時は大抵、息詰まっていたり、優先順位や仕事の整理ができていない証拠だ。すごく生産性が下がっている。もちろん、仕事が進んでいないし、デスクトップも散らかっているからストレスもかかる。

そのときは、一呼吸置き、デスクトップにあるファイルをまずはフォルダに移す。そうすると抱えているタスクとその優先順位がきちんと付けられるようになり、生産性が元に戻っていく。

元から新規ファイルを作成する際に移動させる予定のフォルダに保存すれば良い話しではある。ただ、少し大雑把な部分があるので、それができない。

ある意味、自分の状態を見る指標として機能しているから良いかもなと、無理やり納得させてしまっている。

これからもずっと、私はこんな感じで真っ白な背景との関係を続けていくのだろう。

肩書き

下の記事がtwitterで流れてきたので読んでみた。

『まだ肩書きで消耗してるの? – キングコング 西野 公式ブログ』
http://lineblog.me/nishino/archives/9253233.html

これを読んで、技術の進歩により従来からある肩書きは今後、意味をなさなくなる可能性が高くなる。だからこそ、肩書きに固執せず、自分のやれることをやりたいようにやろうというメッセージのように感じた。

ここらへんを踏まえ、良い機会なので肩書きについて考えてみる。

私自身、肩書きを付けようと思えば、色々つけられる。

今つけられるものだとフリーランスや、デザイナー、こうしてブログも書いているのでライターや、写真も撮るのでカメラマンと名乗ることもできるだろう。過去を含めれば、アートディレクターや取締役兼CDOなどと名乗っていた。

また、人によってはデザイナーという職種に対してより専門分野を狭め、グラフィックデザイナーやUXデザイナー、Webデザイナーなんて付けている場合もある。

こうなってくると、もはや肩書きとは意味あるものなのだろうか?と考え始めてしまう。

おそらく、肩書きは初めて会った方の不安を取り除くために存在する。
人はよくわからないものに対して不安を抱く。だからこそ、初めて会ったときに肩書きでも良いので自分が何者かを提示することによって、相手に安心感を与えることができる。

では、肩書きってどのように付ければ良いのか?という問いに対する答えは簡単で、初めて会う方にどのように認識してもらいたいか、他人からどのように紹介して欲しいのかを考え、そこに合わせて用意してあげれば良い。

ただし、時代の変化はやはり早い。専門分野を狭め、一時だけ通用する肩書き(例えば、UXデザイナーとか)で名乗っても時代に合わなくなる。そうなると、また肩書きを変えないといけないし、それをまた認識してもらうのもコストがかかる。

そのため、自分が進みたい、もしくは専門としている分野で、かつ、誰しもが聞いて分かる簡単な肩書きにしておくのが良いと思っている。

そこで私自身は最近はどんな名刺にもデザイナーと書くようにしている。

ただし、ここまで書いておいてあれだけど、本当の理想は「デザインやってる人」くらいのゆるさで十分だと思っている。そちらの方が自分に対して正直で、絶えず変化に対して柔軟でいられるような感覚があるからだ。

また、肩書きなんてものは相手が自分のやっていることを見て、勝手に付けてくれれば良いのかなと。

だって、自分で考えるの大変なんだもの。

福袋

新春福袋が今年もいたるところで売られている。
5万円相当のものが1万円であったり、10万円相当が2万円であったり、なんだかんだでお得感を感じるものである。

私も前までよく福袋を買っていた。 もらったお年玉を握りしめ、新宿のスポーツショップの福袋を買い、わくわくしながら開けていたのを思い出す。

しかし、高校3年生くらいになってから福袋ほとんど買わなくなった。
理由は福袋を買っても、はずれの感覚が大きくなったからだ。

「確かに欲しかったけど、1万円払うんだったら、前から欲しかった5,000円のものを2つ買った方が良かった。」と思ったし、やはり欲しくないものを持っていても仕方ない。

これはおそらく、服やスポーツ用品に対して、自身の中で欲しいものがかなり明確化されていたのと同時に、福袋が一種の賭けのようなものに変わっていたのだと思う。賭け=勝とうとしているから、損している感覚が強くなったと考えても良い。最初にお得感と書いているのも、自身の中にその傾向があるからだろう。

おそらくだが、本来、福袋は名前のとおりで福を感じるために買うものなのだと思う。
あったら嬉しい、ちょっとしたほっこり感を得られるものを買うのが正しい姿なのだろう。

私自身でそれを感じられるものは、お酒や食べ物など、普通に過ごしていれば消費されるものや、食器や調理器具、タオルなど生活の中で足りないもの・そこまでこだわりのないものたちだ。
やはり、ここには服やスポーツ用品、カメラ用品などの愛好品は含まれていないし、今更ながら自身にとって適していない袋を選択していたことに気づかされる。

そんなことを考えていたら、今年は福袋を買っても良いかもしれないなどと思い始めてきた。
さんがにち最終日、家でゆっくりしていようと思ったけど、ちょっと出かけてこようかなと思う。