肩肘張らずに

今日は仕事である飲食店のインタビューに行ったのだが、そこの会話の中で出てきた「肩肘張らずに」という言葉が頭に残った。

何かを真剣にやっているとき、この肩肘張らずというか、誰かに優しく接するということがすごく難しい。
また真剣にやっているからこそ、自分に対してもそうだが、他人の姿を見て「何故、できないんだ。」、「何故、分からないんだ。」と強く感じてしまう。

amazonのCEOであるジェフ・ベゾスが祖父から受けた、「賢くなるよりも、やさしくなるほうがはるかに難しいことなのだよ」という言葉にもあるように、このさじ加減がすごく難しい。

今は違うけれども、このさじ加減がわからず、高専に入ってから勉学に真剣に打ち込むことをしなくなった。
そっちの方が楽だし、人に対して寛容いられるからだ。

しかし、この妥協というものからは何も生まれないし、大抵は足の引っ張り合いをするだけになってしまう。
いかに真剣に取り組み、いかに他人に対して寛容でいられるか。

肩肘張らずに生きることの難しさと、それを心がける大切さを今日は思い出す日だった。

ムキになること

デザインを始めた当初、制作したものに対して批判されると、良く反発したり、怒りを覚えたりしていた。
頑張って作ったものに対して批判されると当然ながら悔しい。ましてや、その当時は批判される経験をしてこなかったこともあり、なおさらだった。

批判に対して、反発したり、怒ったりすることは時には正しい。ただし、自分が選んだのはデザインという分野であり、アートではない。
クライアントや所属する会社の利益や売り上げに繋がってこそのデザインだし、そこに対して自分の感情というのはおそらく、エッセンスくらいでしかない。

また、人は必ず間違える。間違えない人はいない。それは自分であってもそうだし、ましてや作っている最中に、自分が使いやすいものを知らず知らず組み込んでいる可能性もある。だからこそ、それを正すためにも制作をしたものに対して、相手からきちんと批評やアドバイスをもらい、それを「相手から見るとこう感じるだな」と真摯に受け止め、さらなる改善を重ねていく。このプロセスがデザインを行う際に必要なことであり、これが出来ていると最終的な質はやはり上がってくる。

と、まぁこんなことを書きつつも、ちょっとムキになってしまうところがたまにあるので、気をつけないとな〜と思う1日だった。

再出発

ここ最近のことだが、ふっと

「もっときちんとデザインと向き合おう。」

と思い始めた。決して、適当にやってきた訳でもないし、日々、求められること、吸収しないといけないことに対して取り組んできたつもりだ。

しかし、現代におけるデザインの流れやトレンドに対して反射的に飛びついているように感覚や、もっと自分だったらこうしたいという気持ちと、それに付随したアウトプットが足りないと、どこか心の奥で感じていた。

そんな中で、『DRAFT宮田 識 仕事の流儀』(URL: http://amzn.to/2msvBxC)と、NETFLIXにてイラストレーターのクリストフ・リーマンのドキュメンタリーにて、「スポーツ選手は試合以外に相当量の練習をしているのだから、デザイナーももっと練習しなくてはいけない。」という言葉がものすごく自分の心に刺さった。また、同時期に観た 映画「バクマン。」にて、主人公たちがひたむきに、そして、高い熱量を持って、漫画を描く姿を観たこともあり、完全に自分の中で「もっとデザイナーとして、プロとして、ちゃんとしよう。」という想いが芽生える。

もっと過去のデザインとそのデザインにおける背景を知り、そこからの流れから現代のデザインはどのように発展してきたのかを知る。

まずはそこから始めていこうと思う。

センス

デザインの仕事をし始めてから、センスとは質の良いものをいかに目にして、体験したか。もしくはマネしてみて、試行錯誤した回数によるのではないかと思い始めている。
自分自身、たまに人から服のセンスが良いよねと言われるときがある。これは高校のときからファッション雑誌を良く読み、買った服を色々と組み合わせたりして、失敗しつつもインプットとアウトプットを繰り返していたからだろう。その反復のおかげで今は、自分に似合う服や、それなりに見える格好を理解しているし、最近の流行りみたいなものを何となく察することができる。

こうして考えると、良いアウトプットをするには、数をこなすこと。先人の手法をマネして、吸収し、咀嚼して自分に合うスタイルを模索することが大事なのだろう。これをやっていないといつまで経ってもデザイナーとして、手は遅い、判断は鈍い、自分自身の得意なスタイルも理解できてない状態になってしまう。これで30代になってしまっては致命的だ。

そうならないように、インプットとアウトプットをしっかりやっていかないいけない。そんな風に今日はふいに危機感を覚えた日だった。

そこにいるだけで良いんじゃないか。

「もっとやる気出そうよ。」

何かしら熱を持って行おうとする際に思うときがある。
高校のときにキャプテンをしていたので、昔は特にそれを感じていた。
声を出そうと言っても、大きな声は出ず。腰を落とそうと言っても、腰が落ちるわけでもない。

自身が目指すチームの理想と、実際のチームの状況の乖離が大きい。風土をガラリと変えたこともあり、辞めていく後輩も多くいた。
また、選手を選ぶ立場でもあったので、頑張っている人でも勝つためにベンチから外すという決断をしなくてはいけなかった。
「思った通りに動いてくれない。」、「部員に好かれてないだろうなぁ。」と思いながら、練習が終わったあと、一人でベランダに出て落ち込んでいた。周囲には平気そうな顔をしてたが正直、辛かった。

そんな中でも、掲げた目標のために練習の計画を立て、日々、練習を重ねていった。
結果、歴代弱小と呼ばれていた自分達の代が県大会に出場する。これは歴代初の快挙でもあった。

こうして結果を出すことができたのは通常の練習以外にも、朝練や夜練をしていた部員がいたからでもある。そして意外にも、その部員は自分が「もっとやる気出そうよ。」と思っていた人たちだ。

それ以来、自分は「こいつ、やる気ないな」と思うことをやめた。理想とする基準は確かにある。でも、キツい練習でも辞めずに付いてきて、時間通りに来てくれている。実はそれだけでかなり「やる気のある」状態にある。

だから、そんな人に対して自分の理想とする行動量や熱量と違うからといって、「お前ら、やる気出せよ。」という言葉を発するのはやめよう。苦しくもそれは逆にその人のモチベーションを奪うことになる言葉だからだ。

習慣に入り込むこと

何をやるにしても、始めることよりも続けることの方が大変だということを最近になって実感するようになった。

性格的に好きなものでないと続かないというのもあるのだが、習慣化されている生活リズムに対して新しいことを取り入れようとすると、どこかしらリズムを変えることになる。

この習慣というのは厄介なもので、今まで何度も繰り返して身についたものであり、ある種の癖のようなものでもある。それを変えようとするということは当然ながらストレスが発生してくる。今までの習慣を変えるだけの効果やメリットを得られないと思ってしまうと、物事はおそらく続かないだろう。

だからこそ、プロダクトやサービス作りは相手の生活習慣であったり、行動様式を理解しなくてはいけない。そこから設計・開発を行い、そのプロダクトが相手の生活を劇的に楽にするだけの価値を持ったものにする必要がある。

逆に相手の立場に立ったものでない、強制的に使わせるようなプロダクトは、よほど困っていなければ手にも取られない。もし、使われたとしてもすぐに辞めてしまう可能性が高いだろう。

相手の習慣はなんですか?

その習慣の中で不便であったり、不満に思っていることは何ですか?

そのうえで私たちが提案できることはなんですか?

この投げかけを常に忘れず、相手の生活習慣や行動様式を考えた上でのプロダクトやサービスを作っていきたい。

真っ白な背景との関係

ここ5年ほどだろうか。PCのデスクトップは何も置かずに、真っ白な背景という状態が続いている。

基本、その日に始めた新しいタスクのファイル以外は置かないようにし、置いたものは当日中か、次の日の業務開始時にはあるべきフォルダへ移動させている。

ただし、たまにこれが出来ないときがある。こういう時は大抵、息詰まっていたり、優先順位や仕事の整理ができていない証拠だ。すごく生産性が下がっている。もちろん、仕事が進んでいないし、デスクトップも散らかっているからストレスもかかる。

そのときは、一呼吸置き、デスクトップにあるファイルをまずはフォルダに移す。そうすると抱えているタスクとその優先順位がきちんと付けられるようになり、生産性が元に戻っていく。

元から新規ファイルを作成する際に移動させる予定のフォルダに保存すれば良い話しではある。ただ、少し大雑把な部分があるので、それができない。

ある意味、自分の状態を見る指標として機能しているから良いかもなと、無理やり納得させてしまっている。

これからもずっと、私はこんな感じで真っ白な背景との関係を続けていくのだろう。

肩書き

下の記事がtwitterで流れてきたので読んでみた。

『まだ肩書きで消耗してるの? – キングコング 西野 公式ブログ』
http://lineblog.me/nishino/archives/9253233.html

これを読んで、技術の進歩により従来からある肩書きは今後、意味をなさなくなる可能性が高くなる。だからこそ、肩書きに固執せず、自分のやれることをやりたいようにやろうというメッセージのように感じた。

ここらへんを踏まえ、良い機会なので肩書きについて考えてみる。

私自身、肩書きを付けようと思えば、色々つけられる。

今つけられるものだとフリーランスや、デザイナー、こうしてブログも書いているのでライターや、写真も撮るのでカメラマンと名乗ることもできるだろう。過去を含めれば、アートディレクターや取締役兼CDOなどと名乗っていた。

また、人によってはデザイナーという職種に対してより専門分野を狭め、グラフィックデザイナーやUXデザイナー、Webデザイナーなんて付けている場合もある。

こうなってくると、もはや肩書きとは意味あるものなのだろうか?と考え始めてしまう。

おそらく、肩書きは初めて会った方の不安を取り除くために存在する。
人はよくわからないものに対して不安を抱く。だからこそ、初めて会ったときに肩書きでも良いので自分が何者かを提示することによって、相手に安心感を与えることができる。

では、肩書きってどのように付ければ良いのか?という問いに対する答えは簡単で、初めて会う方にどのように認識してもらいたいか、他人からどのように紹介して欲しいのかを考え、そこに合わせて用意してあげれば良い。

ただし、時代の変化はやはり早い。専門分野を狭め、一時だけ通用する肩書き(例えば、UXデザイナーとか)で名乗っても時代に合わなくなる。そうなると、また肩書きを変えないといけないし、それをまた認識してもらうのもコストがかかる。

そのため、自分が進みたい、もしくは専門としている分野で、かつ、誰しもが聞いて分かる簡単な肩書きにしておくのが良いと思っている。

そこで私自身は最近はどんな名刺にもデザイナーと書くようにしている。

ただし、ここまで書いておいてあれだけど、本当の理想は「デザインやってる人」くらいのゆるさで十分だと思っている。そちらの方が自分に対して正直で、絶えず変化に対して柔軟でいられるような感覚があるからだ。

また、肩書きなんてものは相手が自分のやっていることを見て、勝手に付けてくれれば良いのかなと。

だって、自分で考えるの大変なんだもの。

福袋

新春福袋が今年もいたるところで売られている。
5万円相当のものが1万円であったり、10万円相当が2万円であったり、なんだかんだでお得感を感じるものである。

私も前までよく福袋を買っていた。 もらったお年玉を握りしめ、新宿のスポーツショップの福袋を買い、わくわくしながら開けていたのを思い出す。

しかし、高校3年生くらいになってから福袋ほとんど買わなくなった。
理由は福袋を買っても、はずれの感覚が大きくなったからだ。

「確かに欲しかったけど、1万円払うんだったら、前から欲しかった5,000円のものを2つ買った方が良かった。」と思ったし、やはり欲しくないものを持っていても仕方ない。

これはおそらく、服やスポーツ用品に対して、自身の中で欲しいものがかなり明確化されていたのと同時に、福袋が一種の賭けのようなものに変わっていたのだと思う。賭け=勝とうとしているから、損している感覚が強くなったと考えても良い。最初にお得感と書いているのも、自身の中にその傾向があるからだろう。

おそらくだが、本来、福袋は名前のとおりで福を感じるために買うものなのだと思う。
あったら嬉しい、ちょっとしたほっこり感を得られるものを買うのが正しい姿なのだろう。

私自身でそれを感じられるものは、お酒や食べ物など、普通に過ごしていれば消費されるものや、食器や調理器具、タオルなど生活の中で足りないもの・そこまでこだわりのないものたちだ。
やはり、ここには服やスポーツ用品、カメラ用品などの愛好品は含まれていないし、今更ながら自身にとって適していない袋を選択していたことに気づかされる。

そんなことを考えていたら、今年は福袋を買っても良いかもしれないなどと思い始めてきた。
さんがにち最終日、家でゆっくりしていようと思ったけど、ちょっと出かけてこようかなと思う。

進む方向

20歳くらいのときに「今、進んでいる方向が本当に正しいのか?」と悩んだ時がある。

昔からものづくりが好きなこともあり、高専に入ったが、そこで自分が欲しい・実現したいと思っても力不足だったし、失敗が怖かった。また、別にそれが実現できなくとも悔しいと思う気持ちもなく、熱をそそぐことが出来なかったからだ。

そんな中、22、3歳の時に初めてデザインという分野があることを知る。
今でも覚えているけど、デザインを学び始めてからは世の中の見え方がガラリと変わった。いろいろなものを観察し、そこに新しい発見があり、感動することが増えた。自分にとって、ものすごくかけがえのない存在へと変わった。

今ではUIやIAを本筋においていこうとしているけど、ロゴだったり、名刺・チラシ、フロントエンドなど色んなことに手を出した。
デザインと呼ばれているのであれば、何でも良いから出来るようになろうと動いていた気がする。

ここからが本題だけれども、進みたい方向が決まっていないと人は結構、悩むし、不安にもなる。
そして、それと同じくらい周りも悩むし、困る。

それはなぜか?

どんな仕事が向いているのか、どんな仕事を振れば、その人の今後のためになるかどうかの検討がつかないからだ。
だから、目の前に転がってきた仕事をひとまず任せてしまうし、本人は断る理由もないのでやってしまう。

こうなってくると悪循環にはまり、本来、到着したいはずのゴールから遠ざかる。そして、いつまで経っても不安を抱えたままで、さらに厄介なのが何もかもが中途半端な状態になってしまうということ。

これはおそらく、人だけでなく、会社やサービスも同じだと思っていて、やはり方向性やゴールが分からないと現場は疲弊するし、何を提案して良いか分からない。

探すのも、見つけるのも大変ではあるけれども、方向性をきちんと持つ。それは自分のためでもあるし、ひいては周りのためでもある。

進む方向を考えるのは難しいし、もしかしたら、途中でやめてしまうかもしれないけど、伝える努力をしていく。
そしたら、きっと自分の中で、周囲で色んなことが変わって行くはずだ。